竹内真吾論    金子賢治 (東京国立近代美術館工芸課長)

1.やきもの入門

 竹内真吾は3年間サラリーマン勤めをした後、1979年、愛知県窯業職業訓練校に入学し陶芸を学んでいる。それは組織的な活動を要求される仕事に倦み、自分自身のみを見つめて行えるものを探し出す試行の旅であった。
 必ずしもやきものを特別に志向したというのではない。試行の旅であってみれば理屈から言えば自分ひとりでやれることならなんでもよかったということになるが、そこはやはり瀬戸生まれ、瀬戸育ちであった。彼の家の近所にはノベルティー、玩具、碍子などの製造する窯屋がたくさんあったという。小さい頃、その窯場が遊び場だった。そういうやきもの作りを身近に見ていたので、土を触るというのがどういうことなのか、少なくとも抵抗感はなかった。
 瀬戸では小学校でも窯を持っているところが多く、図工に時間に土で物を作り焼いたりしていたのだという。サラリーマンに倦んだとき、ごく自然にやきものの世界に入っていったということなのであろう。やりだしたら面白くて奥が深く、どんどんはまっていったという。
 訓練校はデザイン科と製造科に分かれていたが、竹内は製造科に属し、轆轤を半分、後の半分を動力轆轤(量産用)、手捻り、タタラなどを学んだ。周りはやきものが好きで入ってきた人ばかり、作家志望の人もたくさんいて、大きな刺激を受けた。そして自然に美術館、画廊の展覧会に頻繁にかようになる。先生にも恵まれたという。

2.伝統工芸へ


 そして修了と同時に薪窯を経営していた加藤ロ志氏の窯に就職した。そこでは4立米ほどの大きな窯を、2ヶ月に一回焚いていた。こうした経過の中で、竹内さんは日本工芸界、日本伝統工芸展の仕事を知るようになり、そうした方向の仕事に興味を持ち、伝統工芸展出品を志すようになった。そこで紹介されたのが二代加藤春鼎氏であった。その経営する鼎窯で、瀬戸のごく通常の仕事、織部、引出し黒、志野、黄瀬戸などに勤しむようになっていくのである(1979年〜)。
 鼎窯では2年余のときを過ごしたが、入ってまだ半年の頃、兄弟子二人が交通事故で入院し、一月ほど彼一人で仕事をこなさねばならないことがあった。覚える間もあらばこそ、ともかくやらなければすまない目も回る日々であったという。窯焚きから何から何まで一人でこなした。このときの経験が後に役に立ったという。そして弟子入りしたときから伝統工芸の東海支部展に出品を始め(1980年〜)、作家活動が始まった。また同時に春鼎氏の門下生の展覧会にも出品を始めた。当時の出品作は織部や鉄釉のものであった。
 しかし徐々に気になっていったことがあった。織部、引出し黒、黄瀬戸、志野……。一門展で並んだ作品を見て、どれが誰の作品か、ほとんどわからない。自分がいるようでいない。その居心地の悪さ。個性を何よりも大事にする竹内さんにとって、それは認め難いものであった。その気持ちは、脱サラして自分自身の道を求めたことの延長上にあるものでもあった。何のために脱サラしたのか。自分自身を何よりも大切にしたからではなかったか。


3.自己自身の制作へ


 そこで竹内さんが注目したのは、以前から興味を持ってきた須恵器の表現であった。黒やグレーなど、原理的にそうした発色をする焼き方のものに魅かれた。そして82年の独立とともに、自分自身のための制作が始まる。
82年、第29回日本伝統工芸展に初入選したのは「灰釉鉢」であったが、以降85年まで「焼締銀彩」、「焼締象嵌」に「炭化象嵌」が混在し、86年以降は「炭化象嵌」が制作の中心になって今日至るのである。
 この85年以降の炭化象嵌の制作は、90年以降の顕著な変化をきたす。それまでの炭化象嵌の作品はどちらかというと、象眼模様が中心で、皿であろうと花器であろうと、模様のための画面を提供するものであったといってよい。その画面を円弧や尖頭形文や、丸・三角・四角の組み合わせ文が埋め尽くすものであった。
 それに比べて90年から発表されるようになる炭化花器や扁筒、あるいは扁壷と題された一連の作品は、土の立ち上げがとる形、その形を装飾する模様、という風に造形の構造が逆転しているのである。


閑話休題―「模倣」について

 日本の現代工芸、特に現代陶芸の大いなる誤解の一つは実にこの点にある。「私は志野をやってます」「青磁やってます」「織部やってます」。これはごく一般的な陶芸家の言い方である。ここからストレートに、志野、青磁、織部などの技法の展開を見せる画面としての陶製キャンパスが形成される。
 それは展開をなるべく見せやすくするため、単純で、平面的なほうがよい。皿、鉢、花器、どのようなものであっても、形にはほとんど関心が向かわない。ほどほどの、陶芸とはこんなものだという、言い換えれば陶芸という長大な時間の中で作り上げられた既成の概念に土の構築が当て嵌められることになる。
 具体的なこれという一点の作品を念頭に置いたものではないが、たくさんの作品から抽出された平均的な陶芸の形を模倣するのである。
 模倣にはいろいろある。過去のものの「写し」、師匠筋の真似、他人の作品の模倣、そして自己作の模倣。いずれにしても現代作家としての創造性を潰してしまうことになる点は変わらない。それに既成の概念、平均的形の模倣もそれに加えて注視しなければならない。
 土の立ち上げ、形の立ち上げ、この時点に陶芸という芸術のもっともパワフルな瞬間がある。言い換えると陶芸という造形が芸術として成立する最も重要なプロセスが展開される。竹内は、90年頃の時点でそれを掴んだのである。

4.高みへ


 それはまた92年頃から様々に変化していく。それまでの角ばった形態から丸みを帯びた形態へ、またその中間的な形をした鎬だった形態へと。そして99年には円筒ないし四角筒がずれて重なっていく形が出てきている。そして2000から2001にかけての瀬戸新世紀工芸館での制作にかかる「I.T.Towers」で大きく結実する。力強いフォルム、抑制され質感とよく融合した装飾が、見るものに迫ってくる。
 こうした体験を踏まえて、03年からまた新しい作風が展開されている。それは有機的で抑揚あるフォルムによる作品である。この土が波打つような自由な形の立ち上げが、今後どのようなスケール感を持って大きく結実していくか。大きな期待を持って見守って行きたい。